劇団四季の時代の裏話

2023年04月08日

この話は、NPO 芸術で人々をつなぐPowWowの代表である賀山自身が横浜市旭区若葉台で語った話。

劇団四季を創設した浅利慶太という人は相当厳しかったようだ。

そもそも、浅利慶太は慶應義塾高等学校、慶應義塾大学(中退)というおよそ一般の我々とは程遠い家系に育ったようだ。親族は東京田辺製薬株式会社(現在は田辺三菱製薬株式会社)を経営していたようだ。

そんな彼は慶應と東大の学生と共に劇団四季を創設したのだ。その仲間の一人が寺山修司。また、当時の右派政治家出会った中曽根康弘や石原慎太郎との深い付き合いもあった。

当時の劇団四季はフランス文学を中心に活動していた。1960〜70年代の正に日本が政治的にも経済的にも大きく変わる時代。この時代はいろいろな意味で価値観が変わっていく時代であった。

右翼が暗躍した時代も、あるいは、古いロシアの共産主義も疑われ始めていた。だからこそ、大学では学生運動が活発化して行き、そんな中で三島由紀夫が自殺していった。私が敬愛していた京都大学の助教授であった高橋和巳という人も自殺してしまった。

話を戻そう。借金をして作った劇団四季の経営も悪化していき、いよいよ、浅利慶太も原を決める時が来た。

そして、彼は彷徨い、ロンドンに行く。そこで出会ったのが、ミュージカル”キャッツ”である。

彼はこれを日本で上演しよう。これでダメだったら、自分はこの世界から身を退こうと決断したのだ。

当時の彼の演出は非常に厳しかったと言われている。ただ、部外者の我々には想像すらできない。

それから20年以上経って、賀山は浅利慶太の門を叩いたのだ。

浅利慶太は、劇団員に、厳しく言ったのは、「基本に忠実に」と言ったそうな。「基本を忠実にできる者に初めて個性を産むことが出来る」とも。

「演劇を全て優先にしろ」とも言われたらしい。「自分の都合で劇団を休む奴には出演のチャンスはない」とも。

賀山自身、結婚相手は劇団員の女性だった。その女性と結納の儀を交わす日が出演の日にぶつかったらしい。

賀山とのちの奥さんは、出演を優先するほかない。だから、彼らの結納の儀には二人とも欠席だったと言う。

二人の親同士が、結納の儀式を行ったと言うから、「何ともはや、悲しきかな!!!」