家康は武田信玄の戦法に学ぶ その(2)

2023年04月02日

武田信玄は、時間ということに大変、意識が強かった。
たとえば、合戦の際、最も疎かにしてはいけないのは、時間との勝負であるということである。
常識的には、圧倒的な兵力差がある場合、敵が籠城していたなら、それをじっくり力で攻めるのが一般的な戦いくさのセオリーである。
しかし、三方ヶ原の戦いで信玄は、家康方に浜松城に籠城されては、城を落とすのに時間がかかり過ぎる、と考えたのだ。
籠城している間に家康の同盟者である信長の援軍が到着して、城内の籠城軍と後詰の織田軍とで挟み撃ちにされることを警戒したのだ。
そこで、浜松城内の徳川軍を、三方ヶ原におびき出してから叩く、という作戦を採った。
この時の信玄の作戦を、家康は学習し、関ヶ原の戦いに活かしたのだ。
1600(慶長5)年9月15日の関ヶ原の戦いの時、石田三成をはじめとする西軍の主力は、美濃大垣城に本拠を構え、東軍の家康軍との決戦に備えた。
そこで、家康は、大垣城の西軍主力をおびき出す作戦に出る。
「大垣城を無視して、まず三成の居城である佐和山さわやま城を落とし、その勢いで大坂城を攻める」という東軍の偽情報を、西軍陣営に流したのだ。
驚いた三成は、大垣城を迂回うかいしてくる東軍を、関ケ原で待ちかまえて迎え撃つ作戦に変更した。
確かに関ヶ原の野戦での、地の利は三成にありましたが、長期戦を覚悟しなければならない大垣城攻めに比べ、関ヶ原での野戦は家康にとって、まだ戦いようがあったのだ。

家康は、武田信玄の戦略を研究し、その結果、時間がかかる長期戦を避けたのだ。